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2011年3月11日の記憶

徒然
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どうも、さわ(@sawa12mskdr)です。

東日本大震災から13年。

毎年、この時期になると決まってあの日のことを思い出します。

私自身は幸いにも、被災もせず、帰宅難民にもならず、それなりに普通の生活を送っていました。

しかし、それでも震災の影響を肌で感じることは多かった。本当に未曾有の災害でした。

あの頃受けた、被災地に比べれば些細な、でも「日常」と比べれば大きな影響。

個人的な記憶ではありますが、ここに書き記しておこうと思います。

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2011年3月11日 当日の記憶

実は、私にはその瞬間の記憶はない。気づいたら大変なことになっていた

当時、大学3年。就職活動真っ最中。

その日は就職説明会のため、早朝から高速バスで東京へ。

午前中、九段下で説明会に参加。その後、昼食をとって早めに帰路につく。

多分、13:00か13:30発の、新宿発甲府行きの高速バスに乗ったはず。

連日の就活の疲れもあって、出発後早い段階で爆睡。

………

意識が戻ったのは、運転手さんのアナウンス。

「地震の影響で中央道が全線通行止めになったため、次のインターチェンジで降ります」と。

寝起きの私、理解が追いつかない。

なぜなら、そのアナウンスの時点でバスは普通に高速道路を走っていたから。

高速道路が全線通行止めになるような大きな地震があったってこと?

すると、前の席に座っていたビジネスマンのお兄さん二人の会話が聞こえて。

「震度7だったらしいよ」と。

私はこの時点で、

震度7クラスの地震+山梨にも大きな影響=東海沖地震が発生した

と思っていました。

しばらくすると、再び前の席のお兄さんたちの会話。

「震源、東北なんだって」と。

…東北が震源で、山梨の高速道路が通行止めになるほどの揺れ…???

地震の瞬間にバスの中で爆睡してたものだから、揺れの実感が全くありません。

当時はスマホの出始め。auのIS03を使っていたのですが、現在と比べてリアルタイムな情報入手はまだまだ大変でした。(ついでにスマホの電池もなかった)

この時点では全く状況が飲み込めず、とにかくバスが着くのを待つしかありませんでした。

コンビニやガソリンスタンドが停電してたり、していなかったり。ますます混乱する一方

バスが高速道路を降りて一般道に入ると、道路沿いのコンビニやガソリンスタンドが軒並み停電していて慌ただしさを感じました。

建物が崩れている様子こそないものの、商品が散乱しているお店もちらっと見えました。

かろうじて信号はついていました。

本当に大きな地震があったんだ…と実感が湧いてきます。

ですが、目的地(甲府駅)付近の大通りに入ると、電気はついているし、お店も営業している模様。

当時のバイト先も通ったけれど、やはり普通に営業しているようで。

本当に状況が理解できず、ただただ唖然とするばかり…

駅から、路線バスとタクシーが消えた

バスは無事甲府駅に到着。

バスを降りると、そこには異様な光景が広がっていました。

バス乗り場とタクシー乗り場に、普段は見たことないような行列ができていて。

いつもはお客さんを待っているタクシーが結構いるはずのタクシー駐車場はもぬけの殻。

中央道と同じく、JR中央線と身延線も運転見合わせになったようで、代替手段を求めた人たちが列をなしていました。

私は駅に原付を置いていたので、とりあえず人の波に揉まれることなく帰宅。

家に着くまでの道も、幸い信号が消えている箇所はありませんでした。

自宅のテレビでようやく状況把握。ただただ呆然

家に帰ると、母以外の家族。母はまだ仕事先から戻っていませんでした。

母の安否と帰宅については弟が確認しておいてくれたため、一旦家族全員の無事は確認。

家の中の物も、倒れたりしたものはなく、ひとまず安堵。

テレビでは山梨県内の状況を報道していて、隣の地域ではかなり広範囲の停電が発生していたようです。

バスで通り抜けたところも停電エリアに入っていました。

自宅のあるエリアは運良く停電しなかったので、とりあえずテレビを見ているしかなくて。

そして目にした、あの大津波の映像。

これが日本で、現実に起きていることなのか…と、ただ呆然とするしかできませんでした。

テレビの隅に表示されていた、日本地図を全て赤線で囲った大津波警報の表示。

海なし県に居ながらにして、心底怖かったし、一生忘れないと思います。

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3月11日以降、受けた影響いろいろ

しばらく眠れない日々を過ごした

震災からしばらくは、ぐっすりと眠れない日々が続きました。

ただ、私の場合は揺れの大きさを直接体感しなかったので、揺れることが怖い…のではなく、緊急地震速報に叩き起こされてました。

当時、あまりの揺れの大きさに地震計が壊れてしまったらしく。

震度2くらいの地震でも誤計測でスマホが鳴りまくってました。

ただ、余震で震度5弱以上の揺れが本当に起きていることも多々あったので、とにかく緊急地震速報が鳴っては飛び起きて、情報確認して…という毎日でした。

原付のガソリンに1000円払った

震災により、物流が大きく乱れました。

スーパーから食料品が消えたり、防災グッズが飛ぶように売れたり。

その中で特に大変だったなぁと感じたのは、ガソリンや灯油の不足。

ガソリンスタンドが臨時休業したり、営業しているスタンドには長蛇の列ができたりしていました。

先述の通り、私は当時原付に乗っていたのですが。

普段、原付にガソリンを満タンに入れるときは、500円でおつりが来ていました。

しかし震災直後は、1000円出してなんとか満タンにできるかどうか。

とてもじゃないけど車なんか乗れる状態ではありませんでした。

計画停電、ロウソクで過ごす2時間。非日常を楽しむことで乗り越えようとした

原発事故に伴い発生した大規模な電力不足。

山梨県でも、地域ごとに順番で停電する「計画停電」が行われました。

2時間にわたっての停電、もちろん不便ではありますがどうしても耐えられないものではありません。

停電後、ろうそくの明かりだけでトランプをして遊んで。

停電が解除されて、「あ、電気ついたね、じゃあ寝ようか」と言って就寝。

…じゃあ停電した時に早めに寝ればいいのに(笑)

そうやって、大変なことを敢えて楽しもうとすることで乗り越えようとしました。

結局、計画停電自体は2〜3回ほどで解除になりましたが。

毎日、何気なく電気を使えることに改めて感謝しています。

おわりに

改めて振り返ると、今生きていることが奇跡だな、と思うことがあって。

もしバスに乗る予定があと数時間遅かったら、私は右も左も分からない東京で帰宅難民となっていたでしょう。

また、地震の瞬間にバスが走っていたので、もし横転したり、道路の損傷に巻き込まれたりしていたら、それこそ命がなかったかもしれない。

こうやって、当時を振り返ることができて、未来に向けて備えをすることができる今に感謝です。

全ての被災した方々が、心から笑顔で生活できる日まで、引き続き微力ながらお手伝いしていきたいと思います。

今を、未来を生きるために。忘れない、あの日のこと。

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